ニーチェ5 流動的な私

第5章 眺望固定病
 
 力への意志は、超人にしか見えないものである。とすれば、我々が力への意志を認識できないのは、なぜか。それは眺望固定病(パースペクティズム)に陥っているからである。


 眺望固定病とは、自分自身を尺度として、自分の支配に好都合な価値を、あたかも普遍的で客観的なものとして、世界を見てしまうことだ。たとえば「価値観の押し売り」がよい例で、これは自分の価値を相手に押し付けるものである。ニーチェは言う、「すべての価値は・・・人間の支配形態を維持し上昇させるのに有用だからという理由で生まれ、事物の本質の内へと誤って投影されたものであり、パースペクティズムの成果にすぎない。自分自身をものごとの意味や価値の尺度とみなすのは人間の幼稚さの極みである。」


 また「自我」も眺望固定病の産物だ。生命とは、生体を構成する機能が自身を最大化しようとする力への意志であった。生命に限らず、意識や精神、思考、心、主観、そして自我もまた、それを構成する複数の力が自分を最大化しようとして、偶然生じた一時点の結果でしかない。複数の思考という「力への意志」を単純化して、「自我」と呼んでいるにすぎない。葛藤はよい例だ。私の中にある個々の思考は「力への意志である。葛藤の結果、生じる行動としての結果は、たまたまでしかない。朝に起きるか起きないか、と葛藤するのは、二つの思考が拮抗しているからである。


 第1章で、自己とは自我に先立つ関係であると述べた。自我とは複数の思考の一時点の結果でしかなく、流動的であるから、論理学的根拠にはなりえない。しかし、自己とは、「自分自身への関係」であるから、力への意志が拮抗した「あと」と、「それ以前」との関わりを指す。つまり「朝に寝ていた自分が起きた」のであり、直前と直後を結ぶ自分自身への関係が見られる。この関係が「自己」なのである。したがって、自己は自我に先立つ。


 以上がニーチェの思考である。

 ニーチェは価値や自我といった、近代哲学までの思考をニヒリズム論によって否定し、力への意志という流動的なメカニズムこそが、実相であるとした。眺望固定病に囚われた我々にとって、力への意志へたどり着くには極めて困難だ。それを乗り越えようとするのが、永遠回帰思想であり、超人思想である。