国際関係と戦後史 −冷戦2

2. 55〜70年代半ば −デタント(緊張緩和)時代


  スターリン没後のソ連ではフルシチョフがトップに就任し、ジュネーブ巨頭会談(米、ソ、英、仏の4カ国)が開催されることとなる。しかしながら、56年ハンガリー動乱や57年スプートニク・ショック(ソ連の宇宙開発)、60年のU2撃墜事件(ソ連が米の戦闘機を空爆)などにより、米ソの両者の溝は深まり、60年の米ソによるパリ会談は中止となった。


  そんな中、61年ケネディが大統領に就任。東西ベルリンは経済格差で東から西への人口流出が続いていたため、ソ連ベルリンの壁を建設したのはこのころである。62年にはキューバ危機が起こる。キューバソ連のミサイル基地として、ミサイル設置を容認。キューバのミサイル射程範囲内に米国全土が含まれることになりそうであった。ケネディはこれに対抗して西側諸国にミサイル基地を建設し、同時に大西洋の海上封鎖を強行。ソ連ワルシャワ条約機構の加盟国に対して軍事配備を指示した。両者の緊張は戦争直前にまで高まったが、ケネディ海上封鎖宣言から1週間後、ソ連フルシチョフは核戦争を警戒して、キューバへのミサイル運搬を断念。核戦争は免れた。


  以後核軍縮に向けて両陣営は動き出す。63年には部分的核実験禁止条約、68年には核不拡散条約が締結された。また相互確証破壊(MAD)の概念が成立し、核抑止力の理論が生まれた。


  69年に誕生したニクソン政権(共和党)は外務大臣キッシンジャー(現実主義国際政治学者)による外交政策を実施する。キッシンジャーはなんとかして、ソ連とSALTⅠを締結したいと考えていた。そこで彼は中ソの対立に目をつけ、72年中国と和解した。これを「米中和解」という。米中が緊密になることを恐れたソ連は、米中和解に呼応して、米国の提案した第1次戦略兵器制限条約(SALTⅠ)を締結した。キッシンジャーの狙い通りであった。


 その後、世界的に緊張緩和(デタントの流れが生まれることになる。