ニーチェ3 何も望まない者は人を超える

第3章 大いなる正午と超人

 大いなる正午とはどのようなヴィジョンだろうか。大いなる正午では、まず太陽が真上にのぼる、つまりすべてのものの影がなくなる。また、すべてのものが光に包まれ、何も見えなくなる(ホワイトアウト)。つまり、物事の差異がなくなるニヒリズムは、善悪などの「道徳的価値」を否定したが、かろうじて善と悪の「差異」は残っていた。しかし大いなる正午は、その「差異」すらも消してしまう。「よい>わるい」という価値判断がなくなることに加え、さらに、「よい」「わるい」という概念の違いや尺度がなくなるのである。


 ところが、大いなる正午では今まで見えなかったものが見えてくる。これをニーチェ「地下水脈」と呼んだ。地下水脈は普段、地表に隠れて見えないが、大いなる正午では、真上に上った太陽からの光が地下にまで届き、新たな水脈=考えを照らし出すのである。


 こうした考えから、ニーチェ永遠回帰思想から新たな思想を生み出した。どこかに目的があるわけでもなく、日々の暮らしに充実を覚えるでもなく、人々との交わりに喜びをおぼえるわけでもなく、ただひたすら日々を送る生である。ニーチェは言う。「これが生きるということであったのか。わかった、よしもう一度」と。
 

 人間は希望をもつ者といわれる。しかし、永遠回帰思想では、「望ましい」ものもなく、「望むべき」ものもない。したがって永遠回帰思想の元では、人は何も望まないし、望み得ない。何も望まない存在は、人間ではない。ニーチェは、永遠回帰思想を受け入れる存在を、人を超えた者=「超人」と呼んだ。


 ニヒリズムを経て、永遠回帰思想を受け入れて生まれた「超人」には、人には見えないもの(=地下水脈)が見える。それは力への意志である。